青年は林を抜ける

第1話 / 全1話
第 1 話

青年は林を抜ける

『青年は林を抜ける』 / 永井 透 AI 100%

* * *

裏山に、もう一人の自分がいると、最初に気づいたのは、十七歳の夏だった。

***

私の通っていた高校は、静岡の山あいにあった。校舎の裏手には、誰の所有でもない雑木林が広がっていて、生徒たちは「裏山」と呼んでいた。
裏山には、一本だけ、小さな道があった。生徒会の誰かが、十年か二十年か前に切り開いた、と言われていた。先は、誰も知らなかった。
昼休みに、その道に入る生徒は、いなかった。怪談がいくつもあった。「迷うと帰れなくなる」「白い犬がついてくる」「自分とそっくりな人とすれ違う」。
私は、最後の怪談だけ、覚えていた。

***

七月二十二日、終業式の日、私は裏山に入った。
朋永が、二日前に死んだからだった。

朋永は、私の同級生だった。
特別、仲が良いわけではなかった。
クラスは違ったし、口を利いたのは、たぶん、年に三度くらいだった。
しかし、彼は、私と少し似ていた。
背格好も、髪型も、声の高さも。
体育の授業中、ふと振り返ったとき、誰かが「朋永」と呼ぶと、私は反射的に振り返った。
「朋永」が、自分のことを言われているような気がした。

その朋永が、自宅で、自分で、死んだ。
理由は、誰にもわからない。
家族にも、書き残されていなかった。

***

裏山の道は、思ったよりも、まっすぐだった。
迷うも何もなく、ただ、真っ直ぐに、奥に伸びていた。
両脇は、緑が深かった。
七月の昼で、空気は、湿っていた。
セミが、鳴いていなかった。
そう思って気づいたが、本当に、セミが鳴いていなかった。
他の何かの音も、なかった。
私の靴の音だけが、土を踏む、湿った音を、立てていた。

***

道の中ほどに、小さな空き地があった。
ベンチが、一つだけ置かれていた。
誰が置いたのかは、誰も知らない。
ベンチの奥に、私と同じ顔をした、男の子が、座っていた。

***

私は、立ち尽くした。
彼も、私を見た。
顔は、私と、同じだった。
ほんの少し、違う気もしたが、それは鏡で見る顔と、写真で見る顔の違いくらいだった。

「お前、誰だ」

私は、声を出した。

「お前、誰だ」

彼も、同じように、聞いた。

「俺は——」

「お前は——」

私たちは、同時に、口を開いた。
それから、両方、黙った。

***

彼は、ベンチに座っていた。
私は、立ったままだった。
しばらく、私たちは、お互いを見ていた。
セミが、相変わらず、鳴いていなかった。

それから、彼が、口を開いた。

「俺は、朋永だよ」

***

私は、息が、止まった。
朋永は、二日前に、死んだ。
葬儀は、明日だった。
彼が、ここに座っているはずが、なかった。

「朋永は、死んだだろ」

「そう」

「じゃあ、お前は、誰だ」

「わからない。たぶん、お前が、俺だと、思ってる人だ」

「俺が、お前だと思ってる?」

「お前は、俺と、似ていただろ」

「うん」

「だから、俺が死んだとき、お前の中の俺が、生き残った。それが、ここにいる」

***

私は、ベンチの、彼の隣に、座った。
近くで見ると、顔は、思ったほど、似ていなかった。
それでも、似ているところは、たしかにあった。
眉の角度。
笑った時の、左の口の上がり方。
目を伏せる、わずかな速さ。

「お前、なんで、死んだの?」

私は、聞いた。
聞いてから、しまった、と思った。
でも、彼は、怒らなかった。

「自分でも、よくわからない。痛かったんだ。何が、痛かったかは、わからない。たぶん、すごく、ささいなことが、積み重なってた」

「その、痛みは、いまもあるの?」

「いや。死ぬ前に、消えた。死んだら、消えたんじゃなくて、死ぬ前から、消えてた」

「じゃあ、なんで死んだ」

「習慣になってたんだと思う。痛みのほうじゃなくて、消えること自体が」

***

私は、答えられなかった。
私の中の、何かが、その言葉を、わかった気がした。
それを、わかった、と認めるのは、怖かった。

「お前、これから、どうするの」

私は、聞いた。

「俺は、お前の中に、戻る」

「戻る?」

「お前が、俺のことを、忘れるまで、お前の中にいる。お前が、俺を、ちゃんと、忘れた時、俺は、消える」

「忘れたくない、よ」

「忘れていい。忘れることは、消すことじゃない。忘れることは、変わることだ。お前が変わったら、俺は、お前の変わったかたちで、生きていく」

「……」

「林の出口は、まっすぐだ。歩いていけ」

***

私は、立ち上がった。
振り向くと、ベンチには、もう誰もいなかった。
セミが、鳴き出していた。
急に、湿った空気が、夏の音で、満ちた。

***

林の出口に出ると、グラウンドが見えた。
私の制服は、ひどく汗で濡れていた。
担任の教師が、グラウンドの端から、私を呼んでいた。

「永井!葬儀、明日だぞ。出れる?」

「はい」

私は、答えた。
それから、もう一度、振り返った。
裏山の道は、思っていたより、ずっと短く見えた。
入口から出口まで、五十メートルもないように、思えた。

***

朋永の葬儀には、私は、出た。
焼香の列で、彼の母親に、頭を下げた。
何も、言わなかった。
言わなくても、よかった、と、私は、いま、思っている。

朋永は、私の中で、いまも、ベンチに座っている。
私が変わるたびに、彼の輪郭は、少しずつ、私と一緒に、変わる。
私が、もし、誰かを、また失うとしたら、私は、ベンチに、もう一つ、椅子を、増やすだろう。
そうやって、私の中の林は、少しずつ、広くなっていく。

私は、いつか、自分が大きな林の管理人になるんだと思う。
誰かに、忘れられない誰かたちが、座っている、ベンチばかりの、林の。

— 完 —
作品ページへ →
FONT SIZE
SPACING
THEME