* * *
祖母は、お茶を摘む歌を、うたっていた。
「八十八夜の、別れ霜……」
季節は、五月の連休のさなかだった。
祖母の住む町は、静岡の山あいで、八十八夜のころには、新茶の畑が、夕方になると霧で霞んだ。
私は、東京の大学に進学してから、七年ぶりに、祖母を訪ねた。
祖母は、九十歳になっていた。
***
「だれ?」
居間に上がると、祖母は、私の顔を見て、そう言った。
だれ? という問いを、私は、覚悟していた。
母から、聞かされていた。
祖母は、認知症だ、と。
「美里だよ、おばあちゃん。みーちゃん」
祖母は、しばらく、私の顔を見た。
それから、ゆっくりと、笑った。
「みーちゃん」と、名前は呼ばずに、ただ笑った。
それでも、笑ってくれた。
それで、十分だと、私は思った。
***
その日の夜、私は、祖母と二人で、お茶を入れた。
祖母は、急須を持つ手が、震えていた。
湯がこぼれて、茶碗の縁を、伝った。
私は、思わず、手を出しかけた。
やめた。
祖母が、自分でやろうとしていた。
「飲みなさい」
祖母は、私に茶碗を渡した。
新茶だった。
すこし、葉が大きすぎた。
若い、青い、苦い、緑色の味がした。
「うちのお茶よ」
祖母は、ゆっくりと、言った。
「うち」とは、たぶん、隣の畑のことだ。
祖母は、もう、畑には出ていない。
それでも、「うちのお茶」と、祖母は言った。
***
夜が深くなった。
祖母は、ふとんに入った。
私は、隣の部屋で、横になった。
障子の向こうで、祖母が、寝言をいう声が、聞こえた。
「八十八夜の、別れ霜……」
祖母は、夢の中で、お茶を摘んでいた。
私は、しばらく、その歌を、聞いていた。
***
朝、祖母は、私の名前を、呼ばなかった。
昨日と同じだった。
代わりに、こう言った。
「あんた、お茶、飲むかい」
祖母は、急須を持っていた。
昨日と同じ、震える手で。
私は、頷いた。
祖母は、お茶を入れた。
「うちのお茶よ」
「うん」
「おいしいだろう」
「うん」
***
私は、その日のうちに、東京に帰る予定だった。
だが、帰らなかった。
祖母の家に、もう一晩、泊まった。
夜、また、同じ歌が、聞こえた。
***
三日目の夜、祖母は、ふと、私の手を、握った。
夕食の最中だった。
祖母は、私の顔を、まっすぐに見ていた。
それから、こう言った。
「みーちゃん。茶摘みの季節は、もうじき終わるね」
***
私は、祖母の手を、握り返した。
握り返したまま、何も言えなかった。
祖母が、私の名前を、呼んだ。
それは、三日ぶりのことだった。
忘れていたわけではなかったのだ、と、私は、その時、わかった。
ただ、祖母の中で、時間が、ばらばらに、舞っていた。
それが、ふと、ある瞬間に、束になって、戻ってきた。
そういうことが、起きるのだった。
***
私は、東京に帰った。
祖母は、その夏、亡くなった。
葬儀の夜、私は、母と二人で、お茶を入れた。
母は、若い、青い、苦い、緑色の味を、飲んだ。
そして、こう言った。
「お母さんね、最後まで、八十八夜の歌を、うたってたよ」
私は、頷いた。
私は、母に、祖母が私の名前を、最後に呼んでくれたことを、話さなかった。
それは、私だけのものに、しておきたかった。
***
私は、東京のアパートで、毎年、五月になると、お茶を入れる。
急須を持つ手は、震えない。
それでも、味は、祖母の入れたお茶と、似ている。
八十八夜の、別れ霜。
霜が、降りる夜は、まだ寒い。
お茶を、ゆっくりと、飲む。
祖母が、いまも、隣の畑で、お茶を摘んでいる気がする。
私は、そんな夢を、まだ、見る。