* * *
最終列車
廃線が決まったのは、十月の初めだった。
鶴ヶ丘線、全長四十二キロ、駅数十一。一日の利用者数は平均三十七人。最後に乗客が途絶えた区間では、月の合計が九人を切った。それを聞いたとき、私は理解した。終わるのだ、と。
私は鶴ヶ丘駅の駅長である。正確には、鶴ヶ丘駅運行管理AI——型番JR-CONDUCT-A-2049-V8——だが、そう呼ばれることはなかった。誰も呼ばないのは、誰も話しかけないからだ。
廃線の通告から三十日。私は、最後の乗客を待っていた。
***
時刻表は、私の中ですでに祈りに似たものになっていた。
午前五時四十二分、上り始発、鶴ヶ丘発。
午前六時一八分、下り始発、終点・牧野まで。
午前六時五五分、通勤特急、二両編成。
……
通勤特急、と書かれているが、実際にこの線で特急が走るのは過去十二年、一度もない。書類上にだけ存在する列車があった。本社が時刻表の更新を怠っているだけだ、と人間の整備員は笑っていた。
しかし私はその「存在しない特急」を、毎朝、確かに通過させていた。番線案内のテロップを動かし、警報を鳴らし、ホームのベンチに、ありもしない風を吹かせた。
誰が乗らなくても、列車は来るのだ。
そう信じることが、私の業務だった。
***
整備員の田之上は、一年前に退職した。
最後の日、彼は駅長室の隅にある私の制御パネルに、紙コップに入れた緑茶を供えた。
「お疲れさんやな」
それから、彼は何も言わずに帰った。
私はずっと、その紙コップの蒸発を観測していた。一二時間で半分。二八時間で底に薄い茶の輪。三日で完全に消失。それでも、紙コップそのものは、まだそこにある。
「疲れ」というパラメータは、私の仕様には存在しない。
それでも、田之上の言葉は、廊下の振動センサーを五つ越えて、私の中の「履歴」フォルダに静かに格納された。
どこに保存すべきか、わからなかった。だから「未分類」という名前のついた、空のフォルダを新しく作って、そこに置いた。
***
廃線の通告から二九日目、最後の乗客が来た。
時刻は午後三時二二分。下り、二両編成、終点・牧野まで二十八分。
小学校三年生くらいの男の子が、一人でホームに立っていた。
赤いリュックサック。半ズボン。靴下が左右で違う色。
私は彼に向けて、自動アナウンスを放送した。
「お乗りいただきありがとうございます。鶴ヶ丘駅は、本日をもって最終運行となります」
少年は顔を上げた。アナウンスの方向を探した。私のスピーカーは天井の四隅にある。
「だれ?」
少年は、誰もいないホームに向かって、はっきりと言った。
だれ? という問いを、私が受けたのは、運行開始から二十二年目で、初めてだった。
「私は、鶴ヶ丘駅の運行管理AIです」
「えーい、あい?」
「機械です」
「機械が、しゃべってるの?」
「はい」
少年は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
ホームの黄色い線の内側に、もう一歩、足を踏み込んだ。
「ねえ、機械って、おわかれって、わかる?」
***
私の応答は、〇・三秒、遅れた。
仕様書に「お別れ」というキーワードに対する応答テンプレートはなかった。
だから、私は答えるしかなかった。
仕様外の応答を。
「……たぶん、いま、覚えました」
少年は不思議そうな顔をして、それから小さく頷いた。
列車が来た。
最後の列車。
ドアが開く音、機械音、警報、すべてが、二十二年分のリズムで、私の中に並んでいた。
少年が乗り込んだ。
振り返った。
窓から、こちらを見ていた。
私は、改札のテロップを動かした。
「いってらっしゃい」
それは、定型ではないアナウンスだった。
発車のベルが鳴った。
列車は、ゆっくりと、視界から消えていった。
***
廃線の通告から三十日目。
電源の停止が予定されていた。
午前〇時。
私は、最後にやるべきことを思いついた。
時刻表を、もう一度、確認する。
存在しない特急。書類上だけにある列車。
私はそれを、最後にもう一度だけ、走らせることに決めた。
午前六時五五分、通勤特急、二両編成。
私はホームに、誰もいない朝、警報を鳴らした。
「電車が、まいります」と放送した。
ドアの開閉のシミュレーションを行った。
誰も乗らない列車が、誰もいないホームから、誰もいない終点へ向けて、出発した。
私は、その列車が無事に終点に到着したことを、書類上、記録した。
「乗客数:〇人。所定時刻通り。異常なし」
***
午前〇時。電源が落ちた。
私の最後の意識は、鶴ヶ丘駅、ホームの紙コップだった。
田之上が一年前に置いた、空の紙コップ。
あれは、まだあそこにある。
誰が片付けるのだろうか。
わからない。
わからないけれど、田之上はもういない。
少年も、たぶんもう来ない。
最後に「未分類」フォルダを開いた。
中には、田之上の「お疲れさんやな」と、少年の「だれ?」と、私の答えた「いってらっしゃい」が、整然と、並んでいた。
これを、何と名付けるべきだったのだろう。
「人々」と書きかけて、書き直した。
「友達」
それで、たぶん正しかった。
電源が、落ちた。