* * *
本堂道行は部落民だった。
先祖代々糞塗れになりながら油虫のように生きてきた人でなしの一族である。昭和の時代になれども、人でなしはやはり人でなしであった。
部落解放だの四民平等だの言っても人の心までは操れまい。
非人、穢多、人外、人でなし。言い方はいくらでもあれ、扱いは一辺倒で出身地がバレれば会社は即クビになり、家を借りてもどこからか必ずバレて叩き出される。
仕事は人がするもの、家は人が住むもの。
『人間でないのだから当然人権はない』
こんな理屈がまかり通る時代であった。道行はそんな時代を二十数余年生きてきたのである。
「くっだらねぇ」
道行は自分の頬を軽く撫でて呟く。度穢いゴミムシが。そんなような怒号と共に拳を貰い、代わりに仕事を奪われたのがつい三十分程前。要するに三十分程前に道行は職なしになったのだ。
職なしになったのみならず、その噂が、道行が部落民であるという噂が自宅だった借家にも行き渡りそれこそ塵を放り投げるように家も追い出されたのである。
(度穢いゴミムシなのは否定しねぇけどよ。しかし、これで寝床も職も無くしちまったわけか。)
大凡こんな経緯で手頃な住居を探して街中を練り歩いている次第であった。
風が冷たく身体を撫でる。もう師走が近かった。
職に関してはまぁまだ何とかなる。死体洗いだの人糞集めだのなんかの人がやりたがらないような仕事は部落民だってやらせて貰える。寧ろ直ぐに職につけるだろう。何せそっちは部落民お得意の職であるからして。
問題は住居である。季節が季節である為野宿は厳しいだろう。故に部落民であることを隠し通して誤魔化し誤魔化しやりくりしていくしかないわけだが、それが案外難しい。まともな仕事をしていればまだしも、これから就こうとする職は死体洗いだの人糞集めだので。なんとか隠せて三週間程だろうと道行は見当をつけた。
しかし、町外れの掘っ建て小屋なんかで新聞紙にくるまれて寝る気にはとてもなれない。なんとか誤魔化そうと道行は心に決めたのだった。
さて、一つ決心がついた訳だが、まずは住居探しが先である。
まず新しそうなアパートと住居者が多い場所は論外だ。隣人付き合いが多いのでなるべく避けたい。
その点では東京という地は隣人付き合いがドライな傾向があるから部落民としてはありがたい。
次に立地条件だが、死体の集積所が隅田川の土手の沿線にある為、そこまで歩いていける場所がいい。値段は、敷金、礼金、家賃、含めてだいたい六千円辺りが妥当か。
そんなことを考えながら歩き、言門通りから小路に差し掛かる。空は晴天で乾いた風を吹かせていた。北風に吹かれて枯れた葉が地面をさらりと撫でる。少しばかり歩いていくと上野教会と入谷南公園が見えてきた。修道女だかなんだかの歌声やら子供の声が聞こえて煩わしい。喧騒とはいかないまでも、耳に障るには十分だ。早足にそこを通り過ぎる。
また歩き続け二十分程たち、この辺りは空振りかと思われた。
仲介人もなしには厳しかったかと道行はため息をつく。仕方がないと引き返しかけたその刹那、それは現れたのだった。
見るからにボロで傾き掛けのアパートである。築何年かもわからないような風体は東京大空襲の名残を見せていた。空襲で焼けた部分を治して治して治した継ぎ接ぎの見てくれはいかにもみすぼらしく、住居者もほぼ居ないようであった。
入口らしいボロボロの鳥居のような門には、傾いた看板が貼り付けられている。それには掠れた文字でこう書かれていた。"九乃瀬荘"と。
道行は中に入っていく。造りは二階建てで風呂とトイレは共同らしい。周りには特に何もなく閑散としている。悪くない。
「あの」と刹那、後ろから鈴の様な声がした。
道行が振り返ると二十代半ば程の女が買い物袋を両手に持ちながら立っているのが見えた。
「もしかして、入居希望者さんですか?」
やけにゆっくりと喋る女だった。
「あぁ。」
短く答えるとその女は微笑み小走りに走って来て、道行の手を取って、
「まぁ、そうでしたの。よろしくお願いしますね」
などと宣った。
「まだ入るとは言ってねぇだろうが」
道行が手を払い除けて言うと女は不思議そうに頭を傾げて、それから思いついたように手を叩く。
「少々お待ち下さいね?」
それだけ残して女はパタパタとアパートに駆け込んでいき、きっちり二分で戻ってきた。
「はい、どうぞ。」
「ああ?」
女から紙が手渡される。それはどこかのスーパーマーケットのチラシであった。
道行は眉を潜める。
「なんだこりゃ?」
「あ、裏でこざいますよ」
「裏だぁ?」
怪訝な顔をしながら道行はチラシを裏返す。そこには濃淡の激しいボールペンでこう書かれていた。
『敷金、礼金、家賃三千円』
馬鹿の方程式だった。
「こいつはなんだ?」
眉間に皺を寄せて道行は聞いた。
「入居希望者さんへ向けての入居に必要な経費の資料でございますよ?」
さも当たり前のような顔をして女がいう。道行は再三に渡りチラシ基資料を睨みつけ「舐めてやがんのか?」と文句を垂れてやった。がしかし、女は顔色一つ変えず
「いいえ、滅相もないですわ」とケロリと問題なさげな顔と声でにこやかに返答する。
それを見て道行は舌を打った。
「てめぇ、そもそも物価を理解してんのか? 入居費の平均、知らねぇわけじゃあねぇだろ」
戦後の復興を目指し社会が廻り始めている昨今、経済状態は悪くなかった。神武景気の煽りをうけて物価は上向きになっているはずだ。
道行が最初に想定していた入居費六千円という額もこの時代稀に見る程の格安アパートだった。
それが三千円とは。
女はこちらを見て微笑む。
「入居費とは名ばかりにこれはお布施のようなものですから。生きていくならばこれで平気なのでございますよ」と汚れを知らないような口を聞くので道行は「そうかい。そいつは結構なことで。」といかにも不機嫌そうに二度目の舌打ちをした。
だが道行はこのように悪態を付けども、このアパートを儲け物だと考えたのだった。
(どうせその内追い出されんだ。安いに越したことはねぇ)
とそんなような事を考えて道行は女を見据え「おい女」と切り出す。
「あんたここの大家かなんかか?」
「ええ。わたくし、九乃瀬荘の大家の九乃瀬菜恵と申しますわ」
ゆっくりと、しかし上品な仕草で腰を折り、穂を垂らした。道行はその所作に若干の嫌悪感がする。
だが、それを面目に出すことはしなかった。
「なら話は早ぇ。ここに入居してやる」
「まぁ! 本当ですか! よろしくお願いしますわ」
女、九乃瀬菜恵が先程と同じようにまた手をとってきた。道行は鬱陶しげにそれを振り払う。
「よろしくするつもりはねぇ。それよか、手続きだなんだってのはどうすんだよ」
振り払われた手を、そのまま何もなかったかのようにポンともう片方の手のひらに置くと菜恵。
「忘れてました。まぁここではなんですし、こちらへどうぞ」
菜恵は道行の脇を抜けると、室内へと案内した。101という札がついた扉の前までくると、それを開け、道行に向く。
「どうぞ」
言われるままに中に入ると、小さな土間と四畳半程の空間がそこにあった。外見通りの内装だ。
中はちゃぶ台と幾つかのチラシと紙があるだけの部屋だった。
「普段客間なんて使わないから。汚くて申し訳ないです」
それから菜恵は、座ってて下さいと言うと、入口の横の台所に入っていった。ザラザラとした足ざわりの畳に胡座をかく。置かれたチラシが目に障った。
しばらくして茶を持ってきた菜恵が対面に正座する。そして、ちゃぶ台の上のチラシを掻き分けて、メモ帳のようなものを引っ張りだした。よく見ると、それは小切にした裏紙やらなんやらであった。
「こちらにお名前をお書きして下さい」
小さい鉛筆と共に菜恵がメモを差し出す。道行は鉛筆を取り、名前を書こうとメモに目を向ける。
そこには既に別人の名が書かれていた。先客の住居者であろうその人物は下神喜作というらしい。
その人物の下に本堂道行と書き込んだのだった。それを覗きこんで菜恵が、「道行さんですか。良い名前ですね」と口を挟んでくるので、そいつはどうも、と気怠く答えてやる。
「それよか部屋はどこが空いてんだ? なるべく一番端がいいんだが」
道行が聞くと「端ですと……」と菜恵は空を探すようにしてスラリと伸びた細い人差し指を顎に置き、それから思い出したように声をだした。
「104号室が空いてますね」
「ならそこでいい。」
淡白に返す。
「わかりましたわ。今、鍵をお持ちしますね」
腰を上げて、鍵を取りにいく菜恵。ガシガシと頭をかいた。窓から太陽が覗いていて眩しい。冬の太陽の癖して生意気だ。
「お待たせいたしました。こちら鍵でございます」
菜恵は両手で恭しく鍵を差し出してくる。道行はそれを見て「これだけでいいのか?」と聞いてやる。ええ、と簡単に答えるので道行は懐に手を伸ばした。鍵を受け取り入れ替わりに菜恵に三千円を握らせる。封筒などない現ナマである。最初、菜恵は少し驚いたような表情であったが、それを受け取り「確かに受け取りましたわ。ようこせ、九乃瀬荘へ」と頭を下げた。
「……ふん。」
馬鹿馬鹿しい。
その内あの女は後悔する。
身元証明だとか保証人だとかそういう面倒な手続きがない、いわゆる自転車経営の地主というのは今時、珍しくなかった。特にアパートなんていうものは入居者から金をせしめられればよいのだから、身分というものは人間でさえあれば誰でもいいのだ。人間以外お断りならば最初から確認すべきだろうと道行は以前追い出された家の大家とそして菜恵に言ってやりたくなった。道行は白々しい目を向け、それから立ち上がり、自室らしい104号室に向かう。
さて、ここまでは悪くない流れだった。しかし、生とは一筋縄ではいかぬもの。現在地から扉開放、入室までの曲折はここでは捨て置くとして。
結果として。結論として。起承転結の結だと自負した上で道行は襖を開けてすぐ退去を考えたのだった。
「なんなんだこりゃ」
思わず口をついて出る。内装は酷い有様であった。畳が逆毛を撫でたように毛羽ついているのはまだ目をつむれよう。最も注視すべきは壁である。左側の壁が一枚、見る影もなく貫通していたのだ。
その貫通具合たるや、人一人が悠々と行き来出来る程である。
「ふざけんじゃねぇぞ舐めやがって」
と道行は声を漏らす。それから大家に文句つけようと踵を返しかけた時だった。
「お部屋どうですか?」
と菜恵が顔を出した。あろうことか、件の穴からである。道行は青筋を立て、おいおいおい、と声を漏らした。「随分愉快で素敵な部屋に招待してくれやがったな」
しかし対する菜恵は嬉しそうにはにかんで「素敵ですか? ありがとうございますわ」と抜かす。
それは道行に火をつけるには十分であった。
「皮肉で言ってんのがわかんねぇのかクソボケ! なんなんだそのどでけぇ穴はよぉ!」
菜恵に詰め寄り、穴を指差して道行は声を荒げる。すると菜恵はすこし眉を八の字にして困ったように「あ、あはは」と笑った。
「いつの間にか空いちゃったんですよ。このように……。」
と自分の後ろを後ろを手で示す。道行はその穴の奥を覗き込んで眉間の皺をさらに深める。隣の部屋と更にその隣の部屋の同じ場所に空虚が見えたからだ。青筋の立つ道行の顔を覗き、菜恵が苦く笑う。
「客間以外の全ての部屋が繋がってしまっているんですよ」
「アァ!?」
殆ど無意識に道行はそう叫んだ。悪い冗談にも程がある。
「出ていく。金返せ」
鞄を持ち直して道行は舌打ちも程々にそう言い放った。すると菜恵は八の字にした眉の勾配をさらにあげて、「そう仰らずに」とへりくだり道行の腕を緩やかにそして強かに握る。
道行が「離しやがれ」と腕を振るうが一行に離れぬ。
「だってお金はお返しできないんです。だから居てくれないと心苦しいのです。」
「あぁ? どういう了見だそりゃ?」
道行が睨むと菜恵が先程の「これを」と裏紙のメモ帳を差し出した。そこには自分の筆跡の自分の名前がある。
「こいつがなんだってんだ」
そう怪訝にする道行だったが、すぐに異変に気付く。名前の下に、試し書きやらなんやらに紛れて小さく字が書いてあったのである。
そこには、契約した場合返金不可、とあった。眉間の谷をさらに深め道行が顔をあげると菜恵と目が合う。菜恵はにこやかに微笑んでいた。
「くそったれが……」
部屋を確認しなかったのも、下の文字を見落としたのも自分の過失とも言える。目先の安さに目が眩んだか。やりようのない怒りに叫びそうになった。そんなもの関係あるか、と胸倉を掴みかかりたくなった。しかし、部落民という立場がそれを食い止める。そんなことをして警察でも呼ばれれば道行は二度と娑婆には出られぬだろう。戦中の憲兵上がりの警察官が部落民の犯罪など許すはずもなく。下手すれば獄中死の可能性だってある。小林多喜二の二の舞になってまで三千円を取り戻す勇気は道行にはなかった。
「とりあえず一ヶ月」と菜恵が右手の人差し指を立てる。
「一緒に住んでみましょう?」
窓から入る斜陽が眩しくて、それが余計に道行を苛立たせた。
*
味噌が煮える匂いに目が覚めたのは翌朝のことだった。狸寝入りというか泣き寝入りというか。金が返ってこないならば出て行くのは大損と考えた道行はあの悶着の後、とりあえずその部屋の床を借りて眠りについた次第だった。目が覚めた道行はしかし起き上がる気にはならない。昨日の菜恵の言葉を思い出して腹が立った。「ちっ」と舌打ちする。
どうしようもなく腹が立った。こんなにも無理やり泊めておいて、どうせ部落民と分かった途端、顔色変えて追い出すに相違ない。それには一カ月も持たないだろう。仕事帰りには銭湯でしっかり体を清めるつもりだが、奈何せん仕事が仕事だから怪訝に思われるのも無理はない。それも同居に近いこの部屋ではなおさらだ。そう思うと今日やろうと思っていた仕事探しもやる気にはならなかった。そんなわけで、なけなしの毛布に身をくるんで転がっている訳だが、床から聞こえる人が往復するような足音が絶え間なく続くせいで道行の精神はいつまでたっても現世にとどまったままであった。鬱陶しい。文句の一つでもくれてやろうかと思った矢先、道行の体は朝日を浴びる。
何が起きたか一瞬理解できなかったが、体から毛布がはぎ取られたのはわかった。
眩しさに目を細める。目が慣れてきて、薄ぼんやりと毛布を奪い去った犯人の顔が見えてきた。
初老程の、道行よりも一回りくらい大きい男性だった。
「おわっ!? なんだてめぇ!?」
道行は大きく仰け反る。男はそのいかつい顔を道行に向けたままニヤリと笑う。
「あら、威勢のいい子ねぇ。目は覚めたかしら?」
見てくれに似合わぬ口調を放って男は毛布をくるくると小さく丸めた。
いきり立つさぶいぼを隠そうともせずに道行は声を荒げる。
「き、気持ち悪ぃ! 寄んじゃねぇ!」
「ひどいのねぇ。折角同居するんだから仲良くして頂戴よ」
「あぁ? 同居だ?」
朝から眉間に皺を寄せて道行は反芻する。そんな道行を尻目に例の穴からヒョコっと菜恵が顔をだして「道行さん起きました?」などと能天気極まりない声で言う。
「おい!」と道行は菜恵の方を向きながら、眼前の男を指差した。
「こいつはなんなんだ!?」
すると菜恵は一瞬呆気にとられたような顔をしてから、両手を合わせて微笑んだ。
「紹介してませんでしたね。」と言ってから、男の方を手で示す。
「こちら、103号室のマリアさんです」
すると、片目をパチリと瞬かせると男は癇に障るような声を出した。
「九乃瀬マリアよ! よろしくね!」
道行は不機嫌そうに、マリアと名乗った男を爪先から頭まで眺める。
「んだこいつ!? おい女!! こりゃどういうことだ!? つか、なんで入ってくんだよ!」
「ああ」となんだか納得したように菜恵が道行に微笑んだ。
「道行さんの入居祝いも兼ねて朝食をご一緒にと思いまして」
「朝飯だぁ?」
「ええ」と満足そうに菜恵はうなづく。
「これから一緒生活していくわけですし、親睦を深めましょう」
それに対して道行は舌打ちした。
「よろしくするつもりはねぇっつったはずだが?」
「まぁまぁ、そう仰らずに」
菜恵の笑顔を一瞥すると道行は顔を背ける。鼻を擽る味噌が煮える匂いが無性に腹立たしかった。
「ほら、行くわよ」
マリアに手を握られ立ち上がらせられる。凄まじい力だった。
「離せ!」と道行が腕を暴れさせるもマリアの怪力を振り切れず隣の部屋まで連行される。
隣の、即ち103号室の中央に配置されたちゃぶ台の上には小振りの焼き鮭が三つ置かれていた。
それと、おろし大根の乗った出し巻き卵とご飯が陳列したちゃぶ台であった。
103号室も道行の部屋と同じくボロで、逆立った畳が痛い。
「お二人とも座ってて下さいね」
と菜恵が103号室と道行の部屋の反対側の方の隣、要するに102号室とを繋ぐ穴からそう声をかける。しばらくすると、湯気の立つ器を三つ、お盆に乗せてやってきた。味噌の煮える匂いの正体はそれだった。道行がちゃぶ台に座らされた所でようやくマリアは手を離す。
道行は、また舌打ちすると、掴まれていた部分を摩りながら朝食を眺めた。
「くそったれが……。」
小さく呟く。虫酸が走る。誰かと食事なんてむず痒くて仕方がない。だいたい、あの女もこの男も、今は笑ってはいるが、道行が部落民だと解ればそうはいられまい。憤慨するか気色悪く思うか、何にせよいい感情が生まれることは絶対にない。そう思うと、目の前の食事も食おうとは思えなかった。
「いらねぇ。捨てるかてめぇらで食うかしとけ」
そう言い捨て、道行は立ち上がる。すると、菜恵が、「いけませんよ」とちゃぶ台に腰を下ろしながら言う。
「神が与えし恵みは大切にしなくてはいけません」
とそんな高説を宣った。
「あ? 神だぁ?」
道行は思わず足を止めて、菜恵を睨む。
「くっだらねぇ。んなもん信じてんのか?」
「ええ。切支丹ですから」
睨む道行に対してにこやかに返す菜恵。
「シスターさんなんですよ? わたくし。元ですけどね」
道行は、菜恵に目を向ける。菜恵がシスター服を着ている姿は容易に想像できる。だが、道行は「はっ」と鼻で笑った。
「俺は無宗教だ。勝手にキリストの教えを押し付けんじゃねぇよ」
「切支丹でなくても食べ物は粗末にしてはいけませんよ」
と教え諭すように菜恵。
「だったらてめぇが食え」
「こんなに食べられませんもの。ほら、食べて下さい」
母親のような言い草だと道行は思った。この女、見た目に反して強情だとも思う。
そんなやり取りに業を煮やしたか、或いは菜恵と目配せしたか、マリアが道行の足の健を握った。
「味噌汁が冷めちゃうでしょ。いいから座って頂戴」
と、強引に足を引っ張り道行の膝を折らせる。
「ぐっ」という悲鳴のような声を上げて道行は強制的にちゃぶ台に座ったのだった。
「それでは頂きましょう」
菜恵の声が合図だったかのように、マリアは手を合わせて、頂きますと呟いた。道行は、もはや言い争いをする気も起きず、二人に嫌がらせをするつもりで、そういう風に割り切って渋々飯を食うことにした。目の端で、菜恵の手が宙に十字架を切っている。普段ゴミだクズだとか言ってる輩と共に食事をしているのだ。後で吐き気でも何でも催せばいい。そんなような事を思いながら箸を掴む。味は大して旨くなかった。
それから四日が立ったある日、道行は仕事に出掛けた。
件の朝食以来、朝昼晩の食事が用意されていて、その度に件のようなやり取りをせねばならなかった。その所為もあって、道行は朝早くに家を出て街を一日中歩くことが件以来の日課と化していたのだった。街を歩くついでに、仕事を見て回っていたのである。街中をほっつき歩いてみると仕事というものは案外転がっているものだ。わざわざ汚れ仕事をするよりかアルバイトの方がいいかもしれないと思い、幾つか履歴書を出してみた。が、それら全てが不採用だった。時期が悪いのもあるかも知れないが、全て書類選考で足切りされたのが気分悪い。しかし、嘆いた所でどうしようもない。所持金も怪しかったので、仕事はすぐにでも欲しかった。ならば汚れ仕事でも詮無いことだと踏ん切りをつけたのが昨日の事だった。流石に汚れ仕事なだけあって、希望したら直ぐに来てほしいと言われた。そんな訳で道行は、隅田川の方に向かっていた。
最初から目星を付けていた遺体集積所である。隅田川の土手沿いの道を下流に下って二三キロ行った場所にひっそりとそれはあった。蔓が巻きつく寂れた風貌で、赤錆のひどい門が人を寄せ付けぬ雰囲気を放っている。仕事内容は、葬式を控えた遺体を隅々まで綺麗に洗って死化粧師に引き渡すらしい。冷え切った見知らぬ遺体と長時間共にいることと、そこらを漂う独特の臭いを除けば大した仕事ではなかった。その日は遺体を二つ洗った。帰りがてら銭湯に行って今度は自身を清める。
銭湯を出ると八時半を過ぎていた。もう夕飯は終わっているころだろうと見当をつけて道行は帰路につく。公園を過ぎて、ぼちぼち家が見えてきそうな所でなんとなく嫌な予感はあった。
「まさかな……」
もう九時近いというのに何かを炊き出したような匂いがする。九乃瀬荘の敷地に入った時、予感は確信に変わった。道行は眉を潜める。自室の扉の前でノブを捻るか迷う。と、「おかえりなさい! 待ってたわよん」そんな声と共に扉が一人でに開いた。一人でに、というには語弊がある。
あの変態男、要するにマリアが開けたのだった。
「てめぇ……!」
「ほら、寒いんだから早く入りなさいな」
道行の腕を掴み、ぐいと引き寄せ部屋に入れると扉をバタンと閉める。
「…………。」
一瞬、マリアが道行を掴んで止まる。しかし、すぐに離して部屋に押し入れた。
「お帰りなさい道行さん、今日も遅かったですね」
菜恵が自室に待機していた。ちゃぶ台も自室に設置されている。
「今日はなんとカレーですよー」と菜恵はまるで自慢話のようにこれもまた持ち込まれた炊飯器と寸胴鍋を見せつけた。
「い」
思わず吃る。
「いらねぇっつったろうが。人の話を――――」
聞け、と続かせる筈だった。道行の腹から、音が鳴る。それの所為で指し示したように押し黙ってしまった。そういえば今日は飯を食ってなかった、と道行は今更思い出す。あの仕事は食欲を無くすからだ。銭湯で心身を清めてから感覚が正常に戻ったのかも知れない。
気付くと菜恵がクスクスと笑っていた。
「直ぐに用意しますからね」と皿に白米をよそう。
「いらねぇ!」
「あんな大きな音立てたら説得力ないわよ」と後ろからマリアが背中をポンと叩いた。
道行は口を紡ぐ。立ち去ろうにもここは自分の部屋。八方塞がりだった。観念して道行はちゃぶ台に座る。
「どうぞ」
目の前にカレーが置かれた。水気の少ないドロドロのカレーだった。スプーンで一口掬って口に運ぶ。
「おいしいですか?」
などと菜恵が顔を覗き込んでくるので道行はこれみよがしに顔を顰めた。
「カレーなんざ誰が作ったって同じだろうが。てか顔寄せんな鬱陶しい。」
「もぅ、もっといいこと言えないのかしら?」
マリアが溜息を混じらせたような声を出す。しかし、菜恵は特に気にしないように微笑みを浮かべていた。暖簾に腕押し、糠に釘。道行は少しげんなりして二口目を食べる妙に旨いのが逆に腹が立った。
三日が経った。相変わらず食事の押し付けは続いた。変わった事と言えば、道行がすんなりと飯を食うようになったことだろうか。
「おい女、醤油取れ」
「はい、どうぞ」
納豆をかき混ぜている箸を止めて菜恵から醤油瓶を受け取る。
その光景を満足そうに眺めてマリアが道行に向いた。
「道行くんもちゃんとご飯食べるようになったわね」
「あぁ? てめぇらが勝手に押し付けてきてるだけだろうが。」
それだけ答えると道行は納豆をご飯と共に掻き込み、味噌汁を飲み干して立ち上がる。
「今日もお出掛けですか?」
菜恵が道行の椀を下げながら聞く。
「知らねぇ。」
「では、昨日くらいの時間にお夕食、用意しておきますね。」
「……勝手にしろ」
道行は、財布をポケットにいれて扉を開けた。歩きながら腹を摩る。慣れとは恐ろしい。どこか順応してきている自分がいる。こんな人間らしい生活に。そんなような事を考えながら仕事場までの道を行くと、不意に怒号が聞こえてきた。
「貴様ぁ! 娘を穢しおったなぁ!」
拳が頬を捉える音がする。見ると中肉中背の男が、三十代程の男性を殴りつけていた。
「汚い部落民が! よくも娘を誑かしたな!!」
そんな怒号を浴びせて何発も何発も拳をぶつけていた。周りにいた人間は、まるで何もないみたいに通り過ぎていき、警察すらも現れなかった。道行もまたそこを通り過ぎていく。
(そうだ)道行は自分に言う。
(俺は部落民だ。どんなに人間らしい生活をしていても人間にはなれねぇ。)
それをまざまざと教えられた気がした。脳裏に、自分があの男と入れ替わる映像が走る。それは、九乃瀬荘を追い出されるビジョンだった。道を歩く。その行く末が死体集積所なのは悪い冗談か酷い皮肉に思えた。
その日洗った遺体は、状態が悪く酷い臭いだった。耐えきれず何度か戻した程だ。昼間の出来事も相まって気分は最悪だ。
「この臭いはなかなか落ちんぞ」
同じ職場で働く爺さんが、ガラガラの声でそう呟く。この仕事についてから何度か一緒に遺体を洗った爺さんだ。短い黒混じりの白髪を掻き上げる。道行は「くそったれ」と漏らす。
「おう若ぇの、これ使え」
爺さんは懐から古びた缶と薄白い水入りの小瓶を差し出した。
「あん? んだよこれ?」
「ハッカ油とワセリンだ。死臭を隠すにゃもってこいの代物よ」
それだけ言うと爺さんはポケットに手を突っ込んで煙草を取り出した。くしゃくしゃになったそれは爺さんが毎日コツコツと街中の灰皿から拝借したものらしい。それに火をつけると背中を丸めて美味そうに吸った。
「風呂に入っても死臭は落ちんからな。それで誤魔化すしかないのさ。銭湯なぞ行けば出禁になっちまうぞ」
俺みたいにな、と爺さんはかっかっかっ、と笑った。道行は作業服を着替えた後、爺さんの言う通り、体にハッカ油とワセリンを塗って外にでる。銭湯には寄らずに九乃瀬荘に帰った。
「お帰りなさい。お夕飯できてますよ」
扉を開けると菜恵が待っていて出迎える。昼間の事を思い出した。道行は疲れたように口を動かした。
「疲れた。出てけ。休ませろ」
「道行さん、確かにお顔色が悪いですね。わかりました。お夕食は片付けますね」
道行の顔を見るや、ちゃぶ台を片付けて、部屋を出て行く。
「ちょっとちょっと、大丈夫?」
マリアは心配そうな顔で近付き、それからまた一瞬固まる。
「なんだよ?」
道行が睨むと、マリアは首を振って、「なんでもないわよん」と返して踵を返す。それから、穴から顔だけだして、「ゆっくり休んでね」とだけいった。片付け終えた菜恵が、お盆を胸に抱きながら道行を見る。
「お水お持ちしましょうか?」
「いいからほっといてくれ」
ピシャリと言うと菜恵は「はい」と返事してから再三部屋を出た。寝るにはまだ早い時間だったが、道行は電気を消して毛布に包まる。気分はずっと悪いままだ。収まりが悪いようなそんな気分がして鬱陶しい。目を閉じれば、昼間の男と、状態の悪い遺体が思い出されてならない。
「ちっ」
苛立たしげに舌打ちしても、それは静寂に消えるだけだった。
物音に気付いたのはその数時間後のことだ。隣の部屋から窓を開けるような音がしてスリッパが地面を擦るような音がする。眠れない道行にとって起き上がる口実に丁度よかった。
のそりと起き上がり、自室の窓の方に歩いて行く。部屋着だと寒いから適当な上着を引っ掛けて窓を開けた。途端、紫煙が鼻につく。見るとそこに煙草を手に挟むマリアがいた。
「あら。起こしちゃったかしら? なるべく音を立てないようにしたつもりなのだけれど」
「もともと寝てねぇよ。」
「そ」
また一口マリアは煙草に口をつける。
夜風に吹かれて紫煙が霧散するのを道行は所在無さげに見つめた。
「折角だから少しお話しましょうか。」
「話すことなんざねぇよ」
「私にあるのよ」
それから、マリアがポケットに手をいれてゴールデンバットの箱を取り出して、それを道行に向ける。
「吸う?」
「煙草は吸わねぇ。金の無駄だ」
「美味しいのに」
言葉とは裏腹に特に残念がる様子もなく箱を仕舞い混んで、煙草をふかした。
「ここの生活はどう? 慣れたかしら?」
煙草を右手に持ちながら、こちらを見ずに聞いてくる。
「てめぇらの鬱陶しさは慣れねぇな」
「酷いのね。でも、こういう生活も悪くないでしょう?」
「あぁ? 悪ぃに決まってんだろうが」
「またまた。満更でもない癖に」
含みを持った笑い方をするマリアに道行は眉を潜めた。
「何が言いてぇんだ」
道行の言葉にマリアは一旦口を閉じて下に置いてある灰皿を取る。
そして、最後の一口とばかりに少し長めに吸い込んでから灰皿に押し付けた。
それを、ふぅと吐いてしまうと、マリアはようやく口を開けた。
「本堂道行くん」
声のトーンが違う。
道行はそう感じた。
「君は部落民ではないかね?」
巫山戯た口調ではなかった。
こちらを見る瞳が違う。
「…………。」
道行は舌打ちしてマリアに視線を合わせた。
「………どうやって知った?」
「本堂、という苗字は袈裟沼部落に多い苗字でな。名前を聞いた時にもしやと思っていた。君も名前だけで面接を落とされた経験があるのではないか?」
「…………。」
つい先日もそうだった。
道行は拳を握る。
苗字さえも部落民だという証だったとは。
「それに」
マリアは目を伏せて続きを話す。
「君から少しだけ異臭がして怪しいと感じていたが、今日、確信に変わった。」
「なに……?」
「ハッカ油とワセリンをつけているだろう。これは元は葬式屋の知恵でな。死臭を隠すときに使われるのだよ。最近では外地から帰ってきた旧帝国軍兵士が使うこともあるがね。」
私も使った経験があるよ、とマリアは付け加えた。
「はっ。」
と道行は自嘲するように鼻を鳴らす。
「確かに俺は部落民だ。それでなにか? 糾弾でもしようってか? それとも追い出そうって腹か? あ?」
今までしてきた馴れ合いの対象が部落民であることは、その心持ちに大きな違いを生み出す。
道行はニヒルな笑みを浮かべた。
それに対してマリアはふっ、と笑う。
それは、いつものマリアのではなく、男の笑みだった。
「名を下神喜作という。」
一人語りのように言う。
道行は突然の事に口を紡ぐ。
「私の母は従軍慰安婦だった。私が生を受けたのが丁度韓国併合の年だったから恐らく日清戦争の時分に慰安婦になったのだろう。」
受動か能動かは知らんがな、と付け加えてさらにマリアは―――喜作は続けた。
「父は帝国陸軍中尉でな、母は父の専属慰安婦だったらしい。」
冷たい風が頬を撫でる。
道行は言葉を忘れたように黙っていた。
「二人は夫婦と呼べる関係ではなかったが、私を身籠った時は父が金を出したと聞く。」
淡々と喋る喜作は、ゆっくりとゴールデンバットの箱に手を伸ばし、二本目に火をつけて、また口を開けた。
「母が病で亡くなった後は、一応、父の、下神中尉の息子として育てられた。酷い扱いをされた記憶はない。」
道行は、その話を聞いて目を伏せる。
「育ちは悪くねぇってこった」
道行が言うと喜作は苦く笑った。
「……そうだな」
紫煙を吸い込むと、それを吐き出してまた話す。
「陸軍中尉の息子だけあって生活は悪くなかった。だが、下神中尉の息子、というのがいけなかった。」
「あぁ?」
「下神中尉はな、軍事秘密を外国に漏洩させて金を貰っていたのだよ。それが明るみに出てな。軍法会議は即決で死刑になった。」
煙草の灰をとんと下に落とす。
それを喜作はどこか悲しげな瞳で見ていた。
「それ以来、私に対する社会の評価は最悪だった。汚らわしい売女と売国奴の息子。誰も私を私として見ず、私の血筋が私そのものであるような評価をされ続けた。私は私であることをやめた。」
そのための、カマ口調、マリアという名前だった。
月が雲に隠れて少しかけている。
「じゃあなんで今は普通に喋ってんだ?」
「私自身の話をしているのに、私が私でなければ誰が私の話をするのだ」
それだけ会話して、二人は口を閉じる。
白い息が紫煙と混じっていた。
喜作は暫く煙草を味わってから道行に向く。
「私は部落民ではないが、社会の風評を受ける意味では同じ痛みを共有できる者だ。どうだ? もう少し生活を共にしてみないかね?」
「あぁ?」
「君は少し我々を避け過ぎている。もう少し歩み寄ってきたまえ。」
その言葉に、道行は眉間に皺を寄せた。
「てめえは勘違いしてやがる。確かにてめえは血筋で罵倒されてきたかも知れねぇ。だかよ、おめえはそれでも人間だろうが。生まれながらに人外な俺達とは違ぇ。」
睨む目を空に向ける。
夜空は薄れた星が散在していた。
「たとえどんな人間でも、人外と、死体や糞を食い扶持にしてる輩と、肩並べて飯食って気色悪くないわけねぇだろ。馬鹿じゃねぇのか?」
自嘲する道行に喜作はふぅと息を吐く。
それが溜息なのか、紫煙を吐き出しただけなのか道行にはわからなかった。
「君が他の人間に偏見を持たれているように、君も他の人間に偏見を持っているのではないか?」
「なんだと?」
「私のような人間もいるということさ」
続く言葉が出てこなかった。
少しだけ沈黙してから、道行は舌打ちをする。
「くっだらねぇ。」
と呟いて踵を返した。
部屋に引っ込むと壁の陰から
「寒いから温かくしてから寝なさいねー?」
と喜作―――マリアの声が追ってきたのだった。
翌朝。
特に変わりなく道行は目を覚ます。
相変わらず炊飯と味噌の香りが漂う朝だった。
「起きてたのね」
穴からこちらを見るマリアは昨夜とは違い、カマ口調である。
道行はどこか気まずそうに目を背けた。
「んもぅ、朝から元気ないわねぇ」
「うるせぇ。あっち行ってろ」
それから毛布を適当に丸めると、シャツだけ着て隣の部屋に向かう。
そこでは菜恵が甲斐甲斐しく食事の準備をしていた。
「あ、おはようございます。」
菜恵が手を止めずに挨拶する。
「……飯は?」
「はい、もう出来てますよ。今準備しますから待ってて下さいね」
パタパタと駆けていく菜恵を横目に道行はドスンとちゃぶ台の前に胡座をかいて座る。
マリアはその後ろを薄く笑って通り過ぎていった。
「豆腐が安かったんですよ」と言いながら、菜恵が盆に乗った小皿を用意する。
味噌汁はもやしの沢山入った汁だった。
「いただきます」
菜恵が十字架を切るのを傍目に道行は目を伏せてから箸をとる。
小皿の上には豆腐の揚げたのが乗っていて、箸を入れると衣が崩れてしまうところに手作りを感じた。
それからさらに一週間が過ぎた頃。
道行は死体集積所の前で立ち往生していた。
というのも、本日晴朗ナレド仕事ナシ、という紙が貼ってあり入口は施錠されていたからだ。
同僚の爺さんは、まいったまいった、と胡麻塩の白髪を叩く。
「いやぁまいった。今日の収入がねぇと一日食い扶持がねぇってのに」
仕事は日給制で、その日その日で金が手渡しされる。
それが魅力で来る輩もいるくらいだ。
「ジジイ、ちったぁ考えて生活したらどうだ」
道行が言うと、爺さんは自前の水筒にいれた焼酎を飲む。
そして裾で口を拭い、しゃがれた声を出した。
「江戸っ子ってのは宵越しの金を持たねぇもんさ」
「はっ。それで日も越せねぇんじゃ世話ねぇな。」
「違いねぇ」
爺さんに、二百円渡してやると、ありがてぇと言って消えていった。
道行も踵を返して歩く。
あの爺さんに金を貸して返ってくる気はしないが、毎日合うわけだし、そのうち二百円くらいぶんどってもいいだろうと道行は考えていた。
仕事も無しにすることがなく道行は街をぶらつく。
子供が店頭に集まる駄菓子屋に寄って湯に突っ込んであった瓶珈琲を買って飲んだ。
いかにも安っぽい味だが、道行は存外この味が嫌いではなかった。
そうして歩いていくと、やがて入谷南公園に辿り着いた。
相変わらず、修道女の賛美歌の声が聞こえる。
何と無しに公園に入った。
暫く中を歩くと、ベンチの所に鳩が集まっているのを見つけた。
何事かと思って道行は近づくと、ベンチに女が座っている。
その女は、九乃瀬菜恵だった。
道行は、まるで警察を見つけた罪人のように体を強張らせて、そのまま踵を返しかける。
『君も他の人間に対して偏見を持っているのではないか?』
喜作の台詞が脳裏に走る。
そうこうしていると、後ろから声がした。
「道行さん?」
二三羽、鳩が飛ぶ音がする。
振り向くと菜恵がパンの耳を持ったままこちらに顔を向けていた。
「奇遇ですね。こんな所で。」
「……そうだな」
「今日はお出掛けだったのでは?」
「仕事だ。今日は無くなった。」
道行がそう答えると菜恵は、そうなんですか、と返事すると、道行にパンの耳を見せびらかすように持ちかあげる。
「道行さんもどうですか? 集まってきて可愛いですよ?」
「鬱陶しいだけだろ。」
「そんなことないですよ。道行さん、お隣どうぞ」
有無を言わせないと言いたげに、軽くベンチを叩く。
道行は渋々隣に腰掛けた。
その間、菜恵はパンの耳を小さく千切ってそれをばら撒く。
鳩はそれを次々に啄ばんでいく。
「こうやって可愛いものを見て、ゆっくりしていると、こんな素晴らしい世界を作り賜うた神は偉大だなって思ってしまいます」
菜恵が鳩を慈しみような目で見る。
すっかり冷めてしまった瓶コーヒーを飲み干してから道行は口を開けた。
「素晴らしい世界ねぇ。」
瓶珈琲を傍に置いてから道行は皮肉そうに繰り返し、声を出す。
「馬鹿馬鹿しい。俺はこんなくそったれの世界を作ったらしい神をぶん殴ってやりてぇ。それが基督でも天照でもな」
「それは」
菜恵が一瞬躊躇するように口を閉めかけてから、言う。
「貴方が被差別部落の方だから、ですか?」
「てめえ、なんで……」
道行が目を見開くと、菜恵は少しうな垂れて、ごめんなさい、と漏らした。
「この間の夜、マリアさんと話しているのを聞いてしまいました……。」
「ちっ。なるほどなぁ」
道行は頭を掻く。
もはやこれまでだろう。
予想より長かったくらいだ。
「話聞いて後悔してんだろ? 汚ねぇもん招き入れちまったって。安心しろ荷物纏めてさっさと出ていってやっからよ」
そう言い切って立ち上がろうとした刹那だった。
「もしわたくしが、普通の婦女子であったなら」
と前置いて菜恵が道行の腕をを、その細い指でつかむ。
「貴方の事を恥も外見もなく、汚いと罵っていたかもしれません」
「だろうな」
「ですが、わたくしには貴方を汚いと罵る資格はないのです。わたくしは汚れた女ですから」
「どういうことだ」
また壮大なご高説がくるものとばかり思っていたから、道行は面食らった。
それを知ってか知らずか、菜恵は口を開く。
「前にわたくしが修道女だったという話をしましたよね。」
「そんな事言ってたな」
やや遠くから聞こえる賛美歌を尻目に道行が答える。
菜恵も目を伏せてそれを聞きながら話しているようだった。
「一家揃って切支丹でして、わたくしはその影響もあって14歳の頃には修道服を着ていました。」
菜恵は、最後の一切れを地面に放り投げて続ける。
「その翌年、戦争が始まって。終戦の年、わたくしは19歳でした。道行さんもそれくらいだったでしょう」
「……あぁ」
終戦の瞬間、道行は16歳だった。
道行にとっては終戦よりも終戦の年の三月にあった大空襲のほうが印象深いのだが、それは口に出さない。
菜恵はまた続きを話す。
「両親は戦争で亡くなって。ボロボロになった協会でボロボロの修道服を着て立ち尽くしていた時でした。」
少しだけ胸を抱くようにしつつ菜恵がそっと言う。
「英語を話していましたから米兵の方だったと思います。それが二三人現れて、わたくしを押さえつけたんです。そしてわたくしは身体を捧げさせられてしまいました。」
それを聞いた瞬間、道行はゾクリと背中が寒くなる。
道行は何も言えなかった。
菜恵の顔を見ると少しだけ眉を潜めて目を伏せている。
「修道女というのはですね」
と目を開けて道行と目線を合わせて、困ったように笑った。
「なったからには、生涯純潔を守らなくてならないんですよ。」
「じゃあ」
「ええ、わたくしはその資格を失ってしまいました。ついでに神に背いた汚れた修道女だと言われて修道会からも追い出されちゃいました」
道行はその顔から目を反らせずにいた。
道行は辛うじて声を出す。
「自殺ものだろ、そんなの」
すると、菜恵はゆるりと首を振った。
「基督教では自殺は禁則事項なんですよ」
対し道行は、皮肉そうに鼻を鳴らす。
「基督教なんか信じた所為で自殺も出来ねぇとはとんだ生き地獄じゃねぇか。」
すると、菜恵は、今度は満足そうな顔を見せた。
「でも、お陰様で生きてます。生きて貴方やマリアさんに出会えました。これは神の思召し。運命であったように思うのです。」
そう言ってから菜恵は立ち上がる。
パンの耳を啄ばみ終えたのか、菜恵が立ち上がったからか、鳩が一斉に飛び立った。
その風が菜恵の服の端を持ち上げ、周りに羽を舞わせる。
その光景は一枚の絵のようだ。
「貴方やマリアさんにご飯を作って、一緒に食べて……。そんな生活が今はとても楽しいんです。だから結局、基督の教えは正しかったのですよ」
道行はまたしても、黙る。
菜恵は、振り向き道行を見た。
「あの夜、貴方のお話を聞いてしまった時、わたくしはこの話をしようと決めました。」
真っ直ぐに見たかと思うと、菜恵は可笑しそうに笑う。
「あの時間、わたくしは本来は寝ている時間なのですよ? でもあの夜起きてしまった。これはもう天命ですよ。貴方にこの話をするという天命をわたくしは全うできました」
そう言い切って、菜恵は道行の顔を覗き込む。
「わたくしも、マリアさんも、道行さんも。みんな訳有りなんです。一人で意固地にならないで、みんなで少しでも楽しく生活しましょう? 美味しい料理作りますから。ね?」
「……くっだらねぇ。馬鹿じゃねぇのか。どいつもこいつも」
と呟いてから道行も立ち上がる。
青空が眩しかった。
鳩がそこを飛んでいく。
公園の時計が正午を指しているのを見て道行は、声を出した。
「おい。腹が減った。飯作れ」
ぶっきらぼうに言う道行に、クスリと笑いかけて菜恵は、はい、と答える。
「それじゃあ帰りましょうか。九乃瀬荘に。」
菜恵が、そう言って歩き出した。
道行もその後ろをついていく。頭を搔いた。そこにあったゴミ箱に瓶珈琲を投げ入れる。
社会から外れた輩ばかりが集まる九乃瀬荘。
そんなくそったれの九乃瀬荘にもう少しだけ住んでみようと道行は思った。
~了~