* * *
四番テーブルの客
深夜一時。
喫茶「月灯」のマスター、飯田は四番テーブルを見た。今夜も来ている。
四十代半ばの男。グレーのコート。黒縁の眼鏡。注文はいつもホットコーヒーのブラック。文庫本を一冊持っている。
毎晩、午前一時ちょうどに来る。一時四十五分に出ていく。四十五分間、コーヒーを飲みながら本を読む。
三週間、一日も欠かさず。
飯田は気づいていた。男が読んでいる本のページが、毎晩同じであることに。
文庫本の背表紙は見えない。だが、開いているページの位置が変わらない。全体の四分の三あたり。毎晩、同じページを開いている。読み進んでいない。
気味が悪いとは思わなかった。深夜の喫茶店には変わった客が来る。それが当たり前だ。
だが、四週目の月曜日。
男がいつもと違うことをした。
一時十分。男がカウンターに近づいてきた。初めてのことだった。
「マスター、一つ聞いてもいいですか」
落ち着いた声だった。
「どうぞ」
「この店に、以前、赤いマフラーの女性が来ていませんでしたか。三十代くらいの」
飯田は考えた。赤いマフラー。常連にはいない。
「いつ頃の話ですか」
「二年前の冬です」
二年前。飯田は記憶を探った。あの頃は——そうだ。一人いた。
「赤いベレー帽の女性なら。マフラーは覚えていませんが」
男の目が光った。
「何を注文していましたか」
「カフェオレ。砂糖二つ」
男は黙って頷いた。そして四番テーブルに戻った。
翌日。飯田は閉店後、店の防犯カメラの記録を調べた。二年前の冬。十二月。
あった。赤いベレー帽の女性。三十代前半。一人で来て、四番テーブルに座っていた。カフェオレ。砂糖二つ。文庫本を読んでいた。
飯田は画面を拡大した。女性が読んでいる本——背表紙が一瞬映った。
同じ本だった。男が毎晩読んでいるのと同じ文庫本。
そして開いているページも——同じだった。全体の四分の三あたり。
飯田は鳥肌が立った。
その夜、一時ちょうどに男が来た。いつものようにホットコーヒーを頼み、四番テーブルに座り、文庫本を開いた。
飯田はコーヒーを運びながら聞いた。
「その本、面白いですか」
男は微笑んだ。
「最後まで読めないんです」
「読めない?」
「このページに、妻の手紙が挟んであるんです。しおり代わりに。ここから先に進むと、手紙を動かさなくてはならない」
飯田は男の手元を見た。文庫本のページの間に、小さく折り畳まれた紙が見えた。
「動かしたくないんです。妻がここに挟んだまま、ここに置いておきたい。彼女が最後に読んでいたページに」
「奥様は——」
「二年前の冬に。この席で倒れたと聞きました。救急車が来る前に」
飯田は思い出した。あの夜。十二月の寒い夜。四番テーブルで女性が突然倒れた。心臓だった。救急車は間に合わなかった。
「この店を恨んではいません。妻が最後にいた場所に、私も座りたかっただけです」
男はコーヒーを一口飲んだ。
「彼女が最後に読んでいたページを、私も読んでいます。毎晩。同じ行を。彼女の目が最後に見た文字を、私の目も見ている。それだけで——」
声が途切れた。
飯田は何も言わず、カウンターに戻った。
一時四十五分。男は静かに立ち上がり、会計を済ませ、出ていった。
飯田は四番テーブルを片付けながら、思った。
明日もこの席を、空けておこう。