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シアン(青)、マゼンタ(赤)、イエロー(黄)、ブラック(黒)。
この四つのインクの網点が重なり合って、世界はできているらしい。少なくとも、姫路から大阪に出てきて三ヶ月、新卒でこの中堅印刷会社に入社した橋本にとってはそうだった。
そして今の橋本の世界は、ひどく淀んだ濁色をしている。
「だから! この赤、もっと『情熱的だけど涼しげな赤』にしてって言ったよね? なんでただの金赤になってんの?」
梅田のオフィスビル群の一角。冷房が暴力的に効いた会議室で、クライアントの若手担当者が苛立たしげに吐き捨てた言葉が、橋本の鼓膜を不快に揺らした。
情熱的だけど涼しげな赤。
(だぼが。そんな色、カラーコードのどこ探してもあるわけないやろがい)
橋本の脳内で、姫路で育った生々しい播州弁が毒づく。だが、現実に橋本の口から出るのは、綺麗に漂白された、魂の籠もっていない標準語の羅列だ。
「申し訳ありません。こちらの認識不足でした。すぐにデザイナーに調整させます」
隣に座る営業部長がヘラヘラと笑いながら頭を下げ、その直後、机の下で橋本の脇腹を革靴の先端で思い切り蹴り上げた。痛みに息を呑むが、表情は変えられない。
重さ数キロにもなる分厚い色校正の束を詰め込んだ巨大な紙袋を提げ、橋本はホワイティうめだの地下迷宮を這うように歩いていた。スーツには、インクの溶剤のツンとした匂いと、自分自身の冷や汗の匂いが染み付いている。会社に戻れば、徹夜でデザイナーに頭を下げ、あの「情熱的で涼しげな赤」という怪異に立ち向かう夜が待っている。
足取りは鉛のように重く、気づけば橋本は会社のある西天満の方向とは逆へ、南へ南へと歩を進めていた。
地上に出ると、アスファルトの照り返しと初夏の生ぬるい風が頬を撫でた。堂島川のほとり、中之島周辺。近代的なビル群の足元に隠れるように存在する、無骨なコンクリートの水門設備に行き着いた。都市の生活排水や淀んだ川の水を吸い込み、処理するための巨大な用水路だ。
ゴウン、ゴウンという重低音が、足元から内臓に直接響いてくる。
濁りきった水が巨大なスクリューに飲み込まれ、ゴミを濾し取られ、漂白されていく。その単調で暴力的なまでの「処理」の過程を、橋本は手すりに寄りかかって、ただぼーっと見つめていた。
(……わやじゃ。完全に俺とおんなじやんけ)
次から次へと流れてくる理不尽という名の泥水を飲み込み、身を削って濾過し、会社という川へ無害な水として吐き出すだけの装置。播州の荒っぽい言葉を腹の底に押し込め、愛想笑いと標準語の敬語だけで世界をやり過ごそうとする今の自分は、この濾過装置と何が違うのだろうか。
橋本の趣味は、ホラー映画を観ることだった。それも、血飛沫が舞い、理不尽なシリアルキラーが人々を追い詰める胸糞の悪いB級ホラーが好きだ。
同期からは「悪趣味やな」と引かれたが、橋本にとっては切実な救いだった。ホラー映画には明確なルールがある。「地下室に行ってはいけない」「呪文を唱えてはいけない」。それを破るから怪異に襲われるのだ。それに比べて、現実はどうだ。ルールを守って真面目に働いているのに、突然「情熱的で涼しげな赤を出せ」という怪異に襲われ、精神を切り刻まれる。スクリーンの中のチェーンソーを持った殺人鬼のほうが、まだ話が通じそうに思えた。
いつか、映画を撮りたい。
漠然とそんな夢を持って、姫路からこの大都会に出てきたはずだった。人間の本性をえぐるような、最高のエンターテインメントを。けれど現実は、iPhoneのカメラアプリすら起動する気力が湧かない、すり減るだけの日々だ。
だが、そんな橋本の人生でオールタイム・ベストの映画は、ホラーではない。『ロード・オブ・ザ・リング』だ。
過酷な運命を背負わされた小さなホビットが、世界を救うために滅びの山へ指輪を捨てに行く、あの長くて重苦しい旅の物語。
「……俺は、フロドや」
橋本は、ゴウンゴウンと鳴り続ける水面に向かって、今度は隠すことなく地元の言葉で呟いた。右手で、ずっしりと重い色校正の入った紙袋の持ち手を強く握りしめる。
「これが、俺の指輪や。これを捨てるために、今日も徹夜の山を登らなあかん。でも……」
手すりに額を押し付ける。コンクリートの冷たさが、火照った顔に心地よかった。
「俺には、サムがおらん。一緒に荷物を持ってくれる親友も、助けに来てくれるガンダルフもおらん。たった一人で、梅田っちゅう名のモルドールを彷徨っとうだけや……」
底知れない疲労感と、圧倒的な自己憐憫。いっそこのまま、この重たい紙袋ごと水路に飛び込んでしまえば、すべてが「濾過」されて消えてなくなるのではないか。情熱的な赤も、涼しげな赤も、全部ただの黒い水に混ざって消えていく。
橋本が水面に身を乗り出そうとした、まさにその時だった。
——ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
水門の機械音すらも切り裂くような、情けなくも巨大な音が、橋本の腹の底から鳴り響いた。
橋本はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて周囲を見回した。幸い、誰もいない。
朝から胃に流し込んだのは、コンビニのブラックコーヒー1本と、ミンティア数粒だけだったことを思い出した。
「……うそやろ」
どんなに心が死にかけていても、どんなに人生のどん底で悲劇の主人公を気取っていても、内臓は一切の空気を読まず、律儀にカロリーを要求してくる。
絶望しているのに、腹が減る。
死にたいくらい辛いのに、胃液が食べ物を求めて分泌されている。
その圧倒的な「生命の図太さ」と「身体の現金さ」がひどく滑稽で、橋本は手すりに突っ伏したまま、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、なんやねんそれ……だっさ」
笑うと、少しだけ胸の奥につっかえていた泥のようなものが晴れた気がした。
映画のフロドだって、過酷な旅の途中で、サムが作ったレンバス(妖精のパン)や、ウサギのシチューを食べていたじゃないか。腹が減っては、モルドールは歩けないのだ。
橋本は水路から背を向けた。
吹き抜ける風の中に、地下街の換気口から漂ってくる出汁の匂いが混じったような気がした。甘辛く煮込んだ牛肉の脂と、関西特有の透き通った昆布出汁の匂い。
「……とりあえず、肉うどん食お」
そう声に出すと、不思議と足に少しだけ血の巡りが戻った。
会社を辞めるにしても、続けるにしても、映画監督の夢を諦めるにしても。明日、あの理不尽な営業部長を殴り飛ばすにしても。とりあえず今は、胃袋に温かいものを叩き込んでから考えればいい。
橋本は重たい紙袋を抱え直し、ネオンが点き始めた梅田の街へと、ゆっくり歩き出した。彼のモルドールでの旅は、まだ終わらない。けれど今はただ、湯気を立てる一杯の熱いうどんのことだけを考えていた。