マジョリカ・タイル

第1話 / 全1話
第 1 話

マジョリカ・タイル

『マジョリカ・タイル』 / 村瀬 慶一郎 AI 100%

* * *

解体が決まった洋館の壁を、私が剥がしている時に、最初の手紙を見つけた。

***

そこは、神戸の山手の、もう誰も住んでいない、明治末期の洋館だった。
所有者の老婆が、五年前に亡くなり、相続人がなく、自治体が代執行で取り壊すことになった。
私の会社が、その解体業者として落札した。

築百二十年。木と漆喰と、ところどころのタイル。
洋風な装飾は、贅沢ではなく、慎ましかった。
特に、玄関ホールの壁面に張られた、マジョリカ・タイルが、美しかった。
イタリアの十六世紀から続く伝統技法で、地のクリーム色に、青と黄色の手描き模様。
百二十年経っても、釉薬の艶は、生きていた。

「外せたら、保存して、博物館に寄贈してくれ」

そう、市の担当者が言った。
私は了承した。
タイル一枚一枚は、十センチ四方ほどで、合計、壁四面で、三百二十七枚あった。

***

最初のタイルは、玄関ホールの、入って右の壁の、地上九十センチの位置にあった。
慎重に、漆喰を削って、外した。
タイルの裏側に、何かが書いてあった。

鉛筆で、こう書かれていた。

『このタイルを誰かが見るとき、わたしはもう、ここにいない』

***

私は、しばらく、立ち尽くした。
タイルの裏に書かれた言葉は、明らかに、最近の鉛筆ではなかった。
紙ではなく、釉薬を塗る前の素地に、直接、書かれていた。
つまり、これは、百二十年前の、職人か、施主の、誰かが、書いた言葉だった。

「親方、なんかメッセージみたいなのあるけど」

部下が、横から覗き込んだ。
私は、答えなかった。
代わりに、次のタイルを、外した。

二枚目にも、書かれていた。

『一九〇五年五月、結婚式の日に、これを書く』

三枚目。

『妻の名はキミ。結核で、もう長くないと医者は言う』

***

私は、ヘルメットを脱いだ。

***

四枚目。
『私はキミに、家を建てている。間に合わないかもしれない』

五枚目。
『キミは、青と黄色の花が好きだ。だから、タイルもそうした』

六枚目。
『マジョリカ・タイルの職人は、京都から呼んだ。三人で、半年かかった』

七枚目。
『キミは、玄関に、たちあおいの花を、植えたいと言った』

八枚目。
『キミは、まだ、笑う』

九枚目。
『キミは、まだ、咳が止まらない』

***

私は、その日、解体作業を、中断した。
事務所に戻り、社長に電話した。
状況を説明した。
社長は、頭をかかえた。
それから、こう言った。

「全部、外して、読んでこい」

***

私は、それから、半年かけて、三百二十七枚のタイルを、丁寧に外した。
順番に、左から右へ、上から下へ、書かれていた。
キミの病状の悪化。
施主——名前は、井村と判明した——の、絶望と祈り。
医者の往診の記録。
キミが食べられた、わずかな白米の量。
キミが見たがった、青い花。
井村が、見つけた、青い花。
キミが、最後に、笑った日付。
キミが、亡くなった日付——一九〇六年三月二日。

最後のタイル、三百二十七枚目には、こう書かれていた。

『家は、間に合わなかった。
キミは、この玄関を、見ることができなかった。
だから、私は、このタイルを、彼女の墓だと思って、建てる。
誰かが、いつか、これを見つけてくれることを、祈る。
井村 周一郎 一九〇六年四月十一日』

***

私は、市の担当者に、すべてを報告した。
担当者は、しばらく黙って、それから、こう言った。

「井村キミの墓は、墓地の北西端にあります。誰も供養していません。相続人がないので」

「行ってみたい」

「あなたが?」

「この手紙を、読んだ責任があります」

***

その日の夕方、私は墓地に行った。
井村キミの墓は、確かに、誰の供養も受けていなかった。
私は、たちあおいの花を一輪、買って、供えた。
三百二十七枚のタイルの内容を、要約した手紙を、書いて、置いた。

「井村さん。
あなたが書いた手紙を、私たちが読みました。
百二十年、誰にも読まれずに、待っていてくれました。
キミさんが好きだった青い花を、持ってきました。
私たちは、あなたのタイルを、博物館に寄贈します。
そこで、もっとたくさんの人が、あなたとキミさんの物語を、知ることになるでしょう」

***

タイルは、その後、神戸市の市立博物館の、特別展示室に、移送された。
展示の表題は、こう、つけられた。
「マジョリカ・タイルの墓——井村周一郎が妻に書いた手紙」

私は、開館初日、家族と、見に行った。
小学校三年の娘が、私に尋ねた。

「お父さん、おてがみって、どうして、誰かに読まれたいんだろうね」

私は、しばらく、答えられなかった。
それから、こう言った。

「読まれないと、その人の気持ちが、世界に、足りなくなるからじゃないかな」

— 完 —
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