* * *
朝、私は窓口を、開ける。
ここは、死んでから三日間、人が手続きをする場所だ。
私は、ここの事務員である。男性。年齢は、自分でも、もう、よく覚えていない。たぶん、四十代の見た目で、もう何百年か、何千年か、ここにいる。
机の上に、本日の予約名簿が、置かれている。
朝一番の来訪者は、午前九時、桐山 文枝さん、八十二歳、女性、元・小学校教諭。死因:自宅にて老衰。
私は、湯飲みを温め、印鑑のインクを確認し、椅子を、二脚、机を挟んで向かい合わせに、置く。
九時ぴったりに、扉が、開いた。
「あら、ここ、あの世なの?」
桐山文枝さんは、襟元のきれいな水色のカーディガンを着ていた。手には、なぜか、湯気の立った湯のみを、持っていた。死んだ瞬間に握っていたものが、そのまま、ここに来るらしい。
「正確には、あの世とこの世の、間の事務所です」
私は答えた。「桐山さんは、これから三日間、ここで、いくつかの手続きを、なさいます」
「三日間、ね。じゃあ、お茶でも入れていい?」
「……ご自由に、どうぞ」
私は、湯飲みを、もう一つ、出した。
桐山さんは、来訪者の中で、稀な、最初から、落ち着いた人だった。
たいていの人は、ここで、しばらく取り乱す。「なぜ私が」「もう一度だけ家に帰らせて」「夫はどうなった」。
桐山さんは、そういうことを、何も、言わなかった。
ただ、湯飲みを、机の上に、二つ、並べて、こう言った。
「茶柱、立った?」
「ええ、立っています、桐山さんの方は」
「やっぱりね。私、運がいいの」
***
申請書類は、合計四枚ある。
一枚目:死亡届(本人記入)
二枚目:心残り報告書
三枚目:配給品選択用紙
四枚目:引取人指定届
桐山さんは、一枚目を、丁寧に、埋めていった。
鉛筆の運びが、少し、遅かった。八十二歳の手だった。
死亡時刻、九月七日午前四時十二分。
死亡場所、東京都世田谷区、自宅。
死因、老衰。
最後の言葉、「お父さん、お風呂、ぬるかったよ」。
ご本人ご記入欄(自由記入):
「お風呂のこと、もう少し、あたたかい方がいい、と、夫に言ったつもりだった。たぶん、夫は、私の声を、聞いてくれたと思う」
***
「夫さんは、お元気で?」と、私は、聞いた。
「もう、八年前に、亡くなりました」桐山さんは、湯飲みを、両手で持った。
「えっ」
「だから、夫が、お風呂に入っていたのは、たぶん、夢のなか。私、夢の中で、夫に、お風呂の温度のこと、伝えてたの。死ぬ瞬間まで」
「……」
「でもね、たぶん、夫は、わかってくれた。夢の中で、笑ってた。あの人、笑うと、目尻に、八つくらい皺が寄るのよ」
私は、鉛筆を、机に、置いた。
こういう瞬間、私の中で、何かが、わずかに、振動する。
規定外の処理だ。私は、本来、感情を持たない。
「桐山さん」
「はい」
「次の書類に、移ります」
***
二枚目、心残り報告書。
桐山さんは、この欄も、すらすらと、書いた。
『心残り、ありません。
強いて言えば、明日の朝、シクラメンに、水をやれなかったこと。でも、隣のヨウコさんが、たぶん、気づいて、やってくれる。あの人、私が水やり忘れる癖、知ってるから』
***
三枚目、配給品選択用紙。
ここから先は、少し、説明が必要だ。
死者は、この世から、あの世に、何かを、ひとつだけ、持っていける。
もちろん、物質的なものではない。それは、思い出、感情、記憶、のようなもの。
事務所には、保管庫があり、そこから、桐山さんが指定した「思い出」が、取り出される。
桐山さんは、目を、閉じた。
「……考えていい?」
「もちろん、三日、あります」
「いえ、もう決めました。考える必要、なかった」
「お決まりですか」
「はい」
「何を、お持ちになりますか」
「夫の、お風呂の温度を、伝え忘れた、あの夢」
***
私は、その指定を、書類に書いた。
『配給希望:夫(故・桐山 史郎)との、最後の朝の、夢の中の会話。お風呂の温度について』
書きながら、思った。
これは、心残りでは、ないのか。
桐山さんは、心残りはない、と書いた。
しかし、彼女が、あの世に持っていきたいのは、伝え忘れた一言だった。
人間は、心残りと、宝物を、同じ場所に、しまっておく。
そういう、設計に、なっているらしい。
***
四枚目、引取人指定届。
「夫が、迎えに、きてくれます」と、桐山さんは、言った。
「お確かめいたします」
私は、引取人名簿を、開いた。
桐山史郎、八年前にこの事務所を通過済み。現在、A区画三段目、待機中。
彼の引取人欄には、「妻・文枝(現在この世にあり、来訪未定)」と、書かれていた。
ずっと、待っていた人だった。
「迎えに、きていただけます」
「そう。よかった」
桐山さんは、湯飲みの底を、見つめた。
中の茶柱は、もう、横に、寝ていた。
***
三日後、桐山さんが、事務所を出ていく日、夫の桐山史郎さんが、扉を開けて、入ってきた。
桐山史郎さんは、薄い茶のセーター。手には、何も、持っていなかった。
「お前、来たな」と、彼は、言った。
「来ましたよ。お風呂、ぬるかったでしょ」
「ぬるかった。でも、お前の声、聞こえたよ」
「聞こえてた? よかった」
二人は、私の机の前で、しばらく、互いを、見ていた。
それから、史郎さんが、文枝さんの、湯飲みを、取った。
「これ、お前のだろ。持っていけ」
「重いから、いやよ。あなたが、持って」
「俺が?」
「あなたが。あの世まで」
***
二人は、扉を、出ていった。
扉の向こうは、私には、見えない。
ただ、扉が閉まる前の、わずかな隙間から、桐山さんが、振り向いて、こう言った。
「事務員さん」
「はい」
「あなた、いい人ね」
「……ありがとうございます」
「いつか、あなたも、誰かが、迎えにきてくれるといいわね」
私は、何も、答えなかった。
答えようがなかった。
私には、迎えに来る人が、いない。
私は、ここで、生まれ、ここで、ずっと、働いている。
***
扉が、閉まった。
机の上には、桐山さんが置いていった、湯飲みが、ひとつ、残っていた。
中の茶は、まだ、温かかった。
私は、それを、自分の方に、引き寄せた。
ひとくち、飲んだ。
茶柱は、もう、なかった。