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夕方、立花 ミチ、九十一歳、女性、無職。
死因:老衰。
ベッドの横の手すりを、握ったまま、息を、引き取られた。
立花さんは、車椅子で、扉から、入ってきた。
死後の世界では、車椅子は、使わなくていいことになっているが、彼女は、自分の車椅子を、必要だ、と、強く、希望した。
「これ、私の足、なんです」と、立花さんは、言った。
私は、配給品選択用紙を、出した。
これは、桐山文枝さんと、同じ書類だが、立花さんは、決められなかった。
「ひとつだけ、なんてね、選べないわよ」
「お時間は、三日、あります」
「九十一年も、生きると、ね、思い出が、多すぎるのよ」
立花さんは、そう、言いながら、車椅子の、肘掛けの、すり減ったところを、撫でた。
「これも、思い出の、ひとつなんですか」
「これは、私の、夫の手作り、よ。十五年前、私が、歩けなくなった年の、誕生日に、作ってくれたの」
「奥様の、ご主人は」
「八年前に、亡くなりました。夫が亡くなってから、私は、この車椅子に、毎晩、お休みなさい、って、言ってた」
***
立花さんは、結局、配給品を、車椅子に、決めた。
「これ、思い出じゃなくて、物ですけど、いいですか」
「規定上は、思い出のみ、ですが、ご本人にとって、思い出と同等のものであれば、特例として、認められます」
「事務員さん、特例、多いのね」
「最近、増えました」
***
書類を出した三日目の朝、立花さんは、湯飲みを、ふたつ、机に、出した。
「事務員さんも、お茶、飲む?」
「ありがたく、いただきます」
二人で、お茶を、飲んだ。
立花さんは、車椅子の上で、小さく、笑った。
「事務員さん、あなた、ずっとここで、お仕事してるの?」
「そうです」
「家族は?」
「いません」
「友達は?」
「来訪者の方が、たくさん、います。皆さん、三日で、出ていかれますが」
「あらまあ」
立花さんは、しばらく、お茶を、飲みながら、私を、見ていた。
「事務員さん、私、配給品、車椅子じゃなくて、夫の作った肘掛けのところ、ふた撫で分の感触、ってことに、しなくていいかしら」
「変更可能です」
「そっちの方が、いいわ。本当の私の、宝物は、肘掛けの、すり減りそのものなの」
***
立花さんが、出ていく日、扉の向こうで、立花さんの夫が、待っていた。
小柄な、白いシャツの、おじいさん。両手を、広げていた。
立花さんは、車椅子から、立ち上がった。
立ち上がれた。
そういう設計に、ここは、なっている。
夫の腕に、立花さんは、抱きついた。
「あなた、待たせて、ごめんね」
「いいよ。八年は、長くなかった。お前、いつかの夜、僕に、お休みなさいって、毎晩、言ってくれてただろう」
「えっ」
「ぜんぶ、聞こえてた」
立花さんは、車椅子を、振り返った。
車椅子は、扉の手前で、動かなくなった。
事務所の、規定だ。物は、ここから先には、行けない。
立花さんは、手を、車椅子の肘掛けに、置いた。
すり減ったところを、ふた撫で、した。
「ありがと、ね」
それから、夫と一緒に、扉の向こうへ、消えた。
***
私は、車椅子を、保管庫に、運んだ。
保管庫の奥、長く眠ってるものたちのコーナーに、置いた。
帰り際、振り向いた。
車椅子は、何も、言わなかった。
ただ、肘掛けの、すり減ったところが、私には、夫の指の形に、見えた。
事務員という、私の業務は、こういう、ものを、見る、ということだったのかもしれない。