死後三日の事務員

第5話 / 全10話
第 5 話

忘れられた書類

『死後三日の事務員』 / 風間 ヒナタ AI 100%

* * *

ある日、扉が、開いた。
予約名簿には、誰の名前も、なかった。
勝手に開いた扉の向こうから、白髪の、痩せた、八十代後半の男性が、立っていた。

「ここ、どこ」

「死後三日間、手続きを、する場所です」

「俺、死んだの?」

「はい。三日前に」

「三日前?」

そうか、と、男性は、ぽつり、と、言った。
それから、彼は、足を、震わせ、なかなか、椅子に、座れなかった。

私は、コーヒーの、紙コップを、出した。
男性は、両手で、それを、握った。

「俺、誰?」

***

私は、書類を、確認した。
予約名簿に、ない来訪者は、稀だ。
だが、稀に、いる。
それは、誰にも、看取られなかった人。
身寄りのいない、独居の方。
あるいは、認知症で、自分の名前を、持って来られなかった人。

私は、保管庫に、走った。
身元不明の、書類が、そこに、いつも、積み重なっていた。
警察の照会、戸籍の記録、最後の住所、最後の体重、最後の食事。
それらを、ひとつずつ、見て、私は、彼の名前を、特定した。

宮田 健一、八十七歳。
妻は、十年前に、死亡。子はなし。
神奈川県、川崎市、アパート二階、独居。
最後に、誰かと話したのは、二〇二六年八月十五日、近所のスーパーのレジ係に「袋、いりません」と言ったとき。

***

私は、宮田さんの、椅子の、向かいに、座った。

「お名前は、宮田健一、さんです」

「みやた、けんいち」

「はい」

「みやた、けんいち、か」

宮田さんは、その三文字を、繰り返した。
何度か、繰り返すうちに、彼の、顔の、目尻に、わずかな、皺が、戻ってきた。

「俺、宮田、健一」

「はい」

「思い出した。妻は、ヨシエ、だった」

「そうです。書類に、そう、書かれています」

「ヨシエ、十年前に、行ったよな、先に」

「はい」

「俺、ひとりだったから、誰にも、看取られなかったんだろう」

「そうです」

「それで、ここに、来るのが、遅れた」

「お一人で、お時間が、かかったようです」

宮田さんは、頷いた。

***

私は、宮田さんの、書類を、すべて、私の手で、書いた。
本来は、本人記入が、原則だ。
今日は、私が、特例で、代筆した。

死亡時刻:不明。推定、八月二十二日午後。発見、八月二十五日早朝、隣人より。
死亡場所:神奈川県、川崎市、自宅。
死因:心不全。
最後の言葉:不明。

「最後の言葉、どうしましょう」

宮田さんは、しばらく、考えた。

「あれだ。俺、死ぬ少し前、テレビ、見てた」

「何のテレビを」

「クイズ番組。ヨシエが、好きだった」

「では、テレビを、見ていた、と」

「うん。あと、ヨシエ、と、呟いた、気がする」

私は、書いた。
最後の言葉:『ヨシエ』

***

引取人は、いなかった。
書類上、引取人欄は、空白で、構わない。
私は、空白に、こう、書いた。
『引取人:事務員(暫定)』

これは、規定外だ。だが、私が、ここの責任者だ。誰も、確認しない。

***

三日目、宮田さんは、立ち上がった。

「俺、もう、行く?」

「はい。お時間です」

「迎えに、誰、来てくれる?」

「妻のヨシエ、さんが、扉の、向こうで、待っています」

宮田さんは、目を、見開いた。

「ヨシエ、いるのか」

「はい」

「あの女、十年も、待って、くれてたのか」

「お待ちでした」

宮田さんは、しばらく、扉の前で、立った。
それから、振り向いて、私に、頭を、下げた。

「事務員さん」

「はい」

「俺、誰にも、看取られなかったって、思ってた」

「はい」

「でも、いま、思った。あんたが、看取って、くれてた」

「私は、お会いしたのが、本日が初めてです」

「そうじゃない。書類、だよ。書類が、俺を、ずっと、見ていてくれた。あんたが、書類を、書いて、くれた」

私は、答えなかった。
答えを、持っていなかった。

宮田さんは、扉を、開けた。
扉の向こうの、ヨシエさんは、若い、新婚の頃の、姿だった。それは、宮田さんの、希望だったのかもしれない。

ヨシエさんは、宮田さんに、手を、振って、笑った。

宮田さんは、走った。
八十七歳の足で、軽く、走った。
そういう設計に、ここは、なっている。

***

扉が、閉まった後、私は、保管庫に、戻った。

身元不明の書類の、束は、まだ、たくさん、あった。
私は、その日から、毎晩、一通ずつ、それらの書類を、開くことに、決めた。
誰にも、看取られなかった人を、せめて、書類だけでも、私が、看取る。

それは、規定外の、業務だった。
誰かが、いつか、私を、注意するかも、しれない。

されたら、されたで、構わない。

***

宮田さんを、見送ったあと、机の上に、紙コップが、ひとつ、残っていた。
コーヒーは、もう、冷めていた。
紙コップの底に、わずかに、コーヒーが、残っていた。
私は、それを、少し、傾けた。
波紋が、できた。
宮田さん、と、私は、呼びかけた。
返事は、なかった。
返事は、こなくて、いい。
私が、呼びかけたことを、書類は、記憶した。

— 完 —
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