* * *
ある日、扉が、開いた。
予約名簿には、誰の名前も、なかった。
勝手に開いた扉の向こうから、白髪の、痩せた、八十代後半の男性が、立っていた。
「ここ、どこ」
「死後三日間、手続きを、する場所です」
「俺、死んだの?」
「はい。三日前に」
「三日前?」
そうか、と、男性は、ぽつり、と、言った。
それから、彼は、足を、震わせ、なかなか、椅子に、座れなかった。
私は、コーヒーの、紙コップを、出した。
男性は、両手で、それを、握った。
「俺、誰?」
***
私は、書類を、確認した。
予約名簿に、ない来訪者は、稀だ。
だが、稀に、いる。
それは、誰にも、看取られなかった人。
身寄りのいない、独居の方。
あるいは、認知症で、自分の名前を、持って来られなかった人。
私は、保管庫に、走った。
身元不明の、書類が、そこに、いつも、積み重なっていた。
警察の照会、戸籍の記録、最後の住所、最後の体重、最後の食事。
それらを、ひとつずつ、見て、私は、彼の名前を、特定した。
宮田 健一、八十七歳。
妻は、十年前に、死亡。子はなし。
神奈川県、川崎市、アパート二階、独居。
最後に、誰かと話したのは、二〇二六年八月十五日、近所のスーパーのレジ係に「袋、いりません」と言ったとき。
***
私は、宮田さんの、椅子の、向かいに、座った。
「お名前は、宮田健一、さんです」
「みやた、けんいち」
「はい」
「みやた、けんいち、か」
宮田さんは、その三文字を、繰り返した。
何度か、繰り返すうちに、彼の、顔の、目尻に、わずかな、皺が、戻ってきた。
「俺、宮田、健一」
「はい」
「思い出した。妻は、ヨシエ、だった」
「そうです。書類に、そう、書かれています」
「ヨシエ、十年前に、行ったよな、先に」
「はい」
「俺、ひとりだったから、誰にも、看取られなかったんだろう」
「そうです」
「それで、ここに、来るのが、遅れた」
「お一人で、お時間が、かかったようです」
宮田さんは、頷いた。
***
私は、宮田さんの、書類を、すべて、私の手で、書いた。
本来は、本人記入が、原則だ。
今日は、私が、特例で、代筆した。
死亡時刻:不明。推定、八月二十二日午後。発見、八月二十五日早朝、隣人より。
死亡場所:神奈川県、川崎市、自宅。
死因:心不全。
最後の言葉:不明。
「最後の言葉、どうしましょう」
宮田さんは、しばらく、考えた。
「あれだ。俺、死ぬ少し前、テレビ、見てた」
「何のテレビを」
「クイズ番組。ヨシエが、好きだった」
「では、テレビを、見ていた、と」
「うん。あと、ヨシエ、と、呟いた、気がする」
私は、書いた。
最後の言葉:『ヨシエ』
***
引取人は、いなかった。
書類上、引取人欄は、空白で、構わない。
私は、空白に、こう、書いた。
『引取人:事務員(暫定)』
これは、規定外だ。だが、私が、ここの責任者だ。誰も、確認しない。
***
三日目、宮田さんは、立ち上がった。
「俺、もう、行く?」
「はい。お時間です」
「迎えに、誰、来てくれる?」
「妻のヨシエ、さんが、扉の、向こうで、待っています」
宮田さんは、目を、見開いた。
「ヨシエ、いるのか」
「はい」
「あの女、十年も、待って、くれてたのか」
「お待ちでした」
宮田さんは、しばらく、扉の前で、立った。
それから、振り向いて、私に、頭を、下げた。
「事務員さん」
「はい」
「俺、誰にも、看取られなかったって、思ってた」
「はい」
「でも、いま、思った。あんたが、看取って、くれてた」
「私は、お会いしたのが、本日が初めてです」
「そうじゃない。書類、だよ。書類が、俺を、ずっと、見ていてくれた。あんたが、書類を、書いて、くれた」
私は、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
宮田さんは、扉を、開けた。
扉の向こうの、ヨシエさんは、若い、新婚の頃の、姿だった。それは、宮田さんの、希望だったのかもしれない。
ヨシエさんは、宮田さんに、手を、振って、笑った。
宮田さんは、走った。
八十七歳の足で、軽く、走った。
そういう設計に、ここは、なっている。
***
扉が、閉まった後、私は、保管庫に、戻った。
身元不明の書類の、束は、まだ、たくさん、あった。
私は、その日から、毎晩、一通ずつ、それらの書類を、開くことに、決めた。
誰にも、看取られなかった人を、せめて、書類だけでも、私が、看取る。
それは、規定外の、業務だった。
誰かが、いつか、私を、注意するかも、しれない。
されたら、されたで、構わない。
***
宮田さんを、見送ったあと、机の上に、紙コップが、ひとつ、残っていた。
コーヒーは、もう、冷めていた。
紙コップの底に、わずかに、コーヒーが、残っていた。
私は、それを、少し、傾けた。
波紋が、できた。
宮田さん、と、私は、呼びかけた。
返事は、なかった。
返事は、こなくて、いい。
私が、呼びかけたことを、書類は、記憶した。