* * *
ある朝、扉が、開いた。
予約名簿には、名前が、なかった。
誰かが、勝手に、開けた。
それは、五歳くらいの、男の子、だった。
半ズボン、白いシャツ、靴は、スニーカー。
「ここ、なに」
「死後、三日間、手続きを、する、場所だよ」
「死んだの、僕」
「うん」
男の子は、しばらく、立っていた。
それから、椅子に、よじ登るように、して、座った。
足が、椅子の、半分くらいまでしか、届かなかった。
「お名前は」
「事務員、さん」
「えっ」
「事務員、っていう、おじさんに、会いに来た」
***
私は、書類を、確認した。
五歳児の、来訪、は、本来、稀だ。子どもは、死後、別の窓口を、通る。ここに、来るのは、間違いだった。
私は、男の子の名前を、検索した。
該当なし。
戸籍も、ない。
「君、お名前、教えて」
「ない」
「ない、というのは」
「最初から、ない」
「ご家族は」
「いない」
***
私は、しばらく、男の子を、見ていた。
彼の、目は、澄んでいて、澄みすぎていて、私は、何かを、思い出した。
私が、ここで、働き始めた、最初の日のこと。
私自身も、こういう、子どもの姿を、していた、気がする。
気がする、というだけだった。
記憶は、すでに、私の中に、ない。
「君、もしかして、僕、かい」
男の子は、笑った。
「うん」
「いつの、僕」
「あんたが、この事務所に、来た日の、僕」
「君、私の、過去なのか」
「うん」
***
私は、椅子から、立ち上がって、男の子の、横の椅子に、座った。
机の上に、お茶ではなく、リンゴジュースを、出した。
男の子は、両手で、受け取った。
「あんた、ずっと、ここで、働いてるね」
「うん」
「どうして」
「家が、ない、から」
「家、つくれば」
「つくり方、わからない」
男の子は、ジュースを、飲んだ。
こく、こく、と、音を立てて、飲んだ。
「あんた、最初に、ここに来た日、覚えてる?」
「覚えてない」
「俺、覚えてる」
「そう」
「あの日、あんた、泣いてた」
「私が?」
「うん。誰かに、迎えに来てもらいたかった、って、泣いてた」
***
私は、自分の、両手を、見た。
両手は、私の手だった。
事務員の、手だった。
何百年、何千年か、書類を、書き、印鑑を、押し、お茶を、入れてきた、手だった。
「迎え、来なかったね」
「うん、来なかった」
「だから、あんた、自分が、迎える人に、なったんだね」
「……」
「あんた、いま、来訪者の人を、毎日、迎えてる」
「うん」
「迎えてあげるとき、あんた、過去のあんたに、迎えに来てるのと、同じだよ」
***
私は、しばらく、リンゴジュースを、飲む、男の子を、見ていた。
男の子は、ジュースを、飲み終わった。
「俺、もう、行くね」
「どこに」
「あんたの、奥に、戻る。俺、いつも、あんたの中で、待ってる。あんたが、誰かを、迎える瞬間、俺は、起きる」
「なぜ、戻るの」
「あんたの中の、俺が、いなくなったら、あんた、誰も、迎えられなく、なる」
***
男の子は、椅子から、降りた。
半ズボンの、ポケットに、両手を、入れた。
それから、扉を、開けた。
「あんた、いつか、誰かが、迎えに、来てくれるよ」
「来ない、と、思ってたよ」
「来るよ」
「誰が」
「俺と、一緒に、あんたを、待ってる、誰かが」
***
扉が、閉まった。
机の上に、空のジュースの、紙コップが、ひとつ、残っていた。
私は、その紙コップを、保管庫に、運んだ。
事務員という、業務の、いちばん、奥の、棚に、置いた。
明日も、業務は、続く。
来訪者は、毎日、来る。
私は、毎日、迎える。
それは、もう、私の、業務ではない。
私の、生き方だ。